2025年7月22日火曜日

「装飾評伝」(松本清張著)の執拗な嫌がらせに戦慄する

夏なのでゾクゾクしたくて「装飾評伝」(光文社文庫・松本清張短編全集09巻収蔵)を読み返しました。オバケも怖いし私はその手の話はとても苦手ですが、多分人間の方がより怖いだろうと思わせてくれる素敵な作品です。


この物語は、小説家で主人公の「私」が名和薛治という明治から昭和初期まで活躍した画家を題材に小説を書こうとするところから始まります。名和は明治21年に東京で生まれ、日本の画壇で異彩を放つ活躍をみせたのち、渡欧しアントワープに滞在してボッシュやブリューゲルに私淑します。日本に戻って来てからも北欧の写実的なエッセンスを取り入れた独自の境地を切り開きますが、何故か徐々に精彩を失い、私生活も荒んでいき、昭和6年に石川県の能登の海岸で不慮の死を遂げる、という生涯を辿ります。ここで主人公は、名和に関する情報は全て芦名信弘という名和の画家仲間が書いた評伝に依っていることに気づきます。そんな折、芦名が72歳で亡くなると言うニュースを受け、情報のソースを失って愕然とします。

そこで主人公は一念発起し、芦名の遺族である娘の陽子に面会して情報を得ようとしますが、拒絶されてしまいます。さらに、名和のかつての画家仲間で現在は画壇の重鎮になっている葉山光介を訪ねたところ、娘の出自について名和の子ではないかと示唆を得ます。そのことに主人公は衝撃を受け、芦名が評伝に書いた内容の行間に潜む、恐るべき作為に気づきます。どうやら芦名は夫婦で名和と交際しているうちに、名和と奥さんができてしまい、名和の子を身ごもったのです。そのことで芦名は名和には告げずに嫁を追い詰めて離縁し、自殺に追いやり、生まれてきた娘の陽子を引き取ります。そして表面上はこれまでと同様に名和との関係を保ちながら、娘を連れて名和を執拗に訪れることで、精神的に追い詰めていきます。名和は懊悩し、都会を離れて青梅の山奥に引きこもりますが、それでも芦名は追跡の手を休めることはありません。徐々に名和は身を持ち崩し、遂に自暴自棄となり能登の海岸で事故とも自殺ともつかない転落死で亡くなります。芦名はほぼ同年代の名和が持つ光り輝く才能に魅了され、強烈に引き付けられる一方、自身の画才は委縮し、家族も無茶苦茶にされます。その愛憎が深く入り混じるドロドロとした感情の結末として、一人の天才を完膚なきまで叩きのめします。そしてその事を平然と評伝として後世に伝えるのです。


この作品は、わずか40ページ足らずの短編ですが、切れ味が鋭く、読後の胸糞の悪さは何とも言えません。主人公である第三者が既に書かれた出版物の何気ない行間に潜むサスペンスを洗い出す展開は、同じく傑作短編作品である「西郷札」に似ています。こういう日常に潜む人間の恐ろしさを書かせたら天下一品だと思います。