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2025年9月7日日曜日

「「空気」の研究」(山本七平著、文春文庫)で大事なことを学ぶ

以前、敗戦の原因を探る原因分析の著書の中で、軍内部の「空気」に関する記述がありました。曰く、「当時の空気としては、そうせざるをえなかった、云々」。また、日常的に「空気を読む・読まない」と言うフレーズは社会人にとって未だに大事な(?)ワードだと思います。

山本七平先生は、「日本人とユダヤ人」など日本人に関する分析や比較文化論で非常に印象深い作品を遺され、学生時代によく読ませていただきました。(小生は京都での大学生時代、理系なのに比較文化論を読み漁っておりました。今は何もアタマに残っていませんが…。)今回、久しぶりに読み直したくなって、本書を手に取りました。

本書は、日本の社会において非常に強い力を発揮する「空気」というものについて、我が国の歴史的変遷とキリスト教的世界観を比較しながら実体に迫る作品です。内容は、「空気」の研究、「水=通常性」の研究、日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について、の3章立てです。

まず、第1章で「空気」について、戦艦大和の無謀な特攻、昭和の公害問題、自動車の排ガス規制の問題などを実例にして、専門家の間に生じる、論理的判断と空気的判断のダブルスタンダードについて論じ、ひとたび空気が醸成されてしまうと論理よりも優先されることを紹介します。続いて、空気の発生メカニズムとしてキリスト教やイスラム教との対比として、我が国独自の臨在感的把握が挙げられます。臨在感の把握として、物質への感情移入による恐れの発生・神格化が生じて、その神格化された物質から逆に支配され、金縛りにあっている状態が空気の支配と述べられます。

続く第2章では、「水」について論じ、空気の支配から逃れる手段として、水を差すという手段について考察されています。平時には水という通常性が雨のように降っているために現実から乖離することは無いが、それが通用しなくなった時に、空気が支配的になると論じています。日本共産党の歴史の変遷など様々な例を引きながら、自在に論理が展開します。結語として、「空気」も「水」も状況論理と状況倫理の日本的な世界で売れてきた、我々の精神生活の「糧」と述べられます。

最終章は、かつて「アタマの切り替え」と称して、兵士として太平洋戦争の戦地に赴いたものが、内地に戻りあっという間に行動の規範を変更し、何事もなかったかのように日常に溶け込んだことから我が国の根本主義とは何かを論じています。まず西洋における根本主義について論じたあとに、それと対極にある我が国のコロコロと変わる態度について考察が展開します。曰く、日本人は状況を臨在感的に把握し、それによってその状況に逆に支配されることによって動き、これが起こる以前にその状況の到来を論理的、体系的に論証しても動かないが、瞬間的に状況に対応できる点は天才的と述べられています。言葉は複雑ですが、これって自分に顧みても重みを感じる言葉だと思います。

かつては、日本で「空気」が支配的になるのは明治の近代化以降で、江戸時代や明治時代の初期にはむしろ唯々諾々として従うのは恥とする傾向があったそうです。今や空気の奴隷たる私のような中年男性には、逆に恐ろしい世界です。私もたまには職場で「水をさして」みようかしら、と夢想しました。そんな無謀な挑戦はさておき、ともかく本書は間違いなく名著です。特に社会人に読んで、色々考えて欲しい一冊です。



「目に見えないもの」(湯川秀樹著、講談社学術文庫)を読んで、ありがたい気持ちになる

私のような、平成初期に京都大学理学部で物理学を志したものにとって、湯川秀樹先生、朝永振一郎先生のお名前は、一種独特の響きがあります。お二人共にノーベル物理学賞を受賞された素粒子物理学の大家でありますが、特に湯川先生は幼少期より漢籍に親しみ、文章家として「旅人」など、沢山の優れた随筆などを遺されております。

「目に見えないもの」は、湯川先生が三十代の時に書かれた随筆集です。全体が3部構成になっており、第1部は先生のご専門である素粒子物理学について、第2部と3部は半生の記やご家族に関することなど自由な内容になっております。

第1部は骨太で、自然哲学から現代物理学へと至る学問の流れを概説し、生命を量子力学的にどう捉えるかなど非常に示唆に富む内容になっております。俗人である私には2部に収蔵された、半生の記が興味深かったです。湯川先生は大阪大学理学部の助教授から京都大学の教授になられましたが、先生の代表作である中間子理論の骨子は阪大時代に考えられたそうです。その理論を着想したいきさつが語られており、私生活ではご子息が生まれたばかりの大変な状況でも不眠症になるまで一心不乱に考え続け、更には寝る時も枕元にノートを置いて繰り返し推敲したというエピソードには頭が下がる思いです。

肝心の私は京大理学部の物理学の講義に全く付いて行けず、巡り巡って生物学の研究者になりましたが、今でも憧れであります。


2025年8月23日土曜日

夏の思い出(「日本海軍 失敗の本質」戸高一成著、PHP新書を読んで)

いつも長期の休みには本をまとめ読みするのですが、今年は忙しくて1冊しか読めませんでした。その1冊が「日本海軍 失敗の本質」(戸高一成著、PHP新書)です。この本は、太平洋戦争における日本海軍のそれぞれの戦い(真珠湾奇襲、セイロン沖海戦、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ルンガ沖夜戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄特攻)に焦点をあてて、どこが判断の誤りだったのか、どうすればよかったのかを検証しています。負けに不思議の負けは無し、ということで、この反省を生かさなければなりません。

終戦から80年ということで、この時期は過去を知り、大いに考えるようにしております。何だか説教臭いのですが、自分も年をとったということでしょうか。


一冊では何だな~と思ったので、本棚にある本を引っ張り出して久しぶりに眺めてみました。

日本海軍に留まらず、日本軍全体の組織について緻密に社会科学的な分析した本として、「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎著)が挙げられます。本書は、まず第1章に失敗の分析としてノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄の6つの作戦を取り上げ、それぞれ組織学的に詳細な分析をしています。続く第2章では、6つの事例に共通してみられる日本軍の組織的特性や欠陥を抽出して整理しています。最後の第3章が大事で、ここでは失敗の本質が現在も改善されていないとの認識の下、日本軍の失敗が教えてくれる現代の課題の提示と解明が書かれています。この本で語られる、目的がはっきりしないとか、学習が欠けているとか、環境に過度に適応させすぎている、とかは耳が痛いですね。

戦争体験を沢山語られている漫画家として、偉大なる水木しげる先生が挙げられます。水木先生は太平洋戦争の激戦地であったラバウルに出征され、左腕を失うなどの壮絶な体験をされています。その体験をまとめた本が、「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)です。本書は、出征当時に描かれていたデッサン(+戦後に加筆したもの)に文章を添えた本で、一兵士の記録として非常に興味深いです。のんびりとした口調で話は展開しますが、部隊の同僚がワニに食われたり、戦闘で命を落としたり、中身は過酷です。生き死にを分けるのは、ほんの些細なことなのだと実感しました。

もう一冊、水木しげる先生の作品で「劇画ヒットラー」(ちくま文庫)を御紹介します。冒頭は収容所送りを恐れる民衆のシーンから始まるのですが、次の章で若き日の貧乏画家だったヒットラーの生活の場面に移ります。そのギャップに愕然とします。そこから政治の世界でいかにのし上がり、独裁者として君臨し、やがて国を破滅に導きます。最後は果てしない廃墟が続く背景をバックに「これがヒットラーがドイツ国民に送った「千年帝国」だったのである………」という台詞が書かれ、物語が閉じます。色々考えさせらる作品で、心に沁みます。


2025年8月17日日曜日

「西郷札」(松本清張著、光文社文庫)に後の清張作品の原型をみる

松本清張短編全集第1巻の冒頭に掲載されている「西郷札」は松本清張のデビュー作の短編作品です。私は、この短編に後々の松本清張作品の鋳型を見るような気がして、度々読んでいます。この作品のあらすじは下記の通りです。

この作品は、九州の新聞社に勤める「私」が、新聞社が主催する「九州二千年文化史展」というイベントに出品する銘品を九州一円から取り寄せる所から物語が始まります。その中で、宮崎支局から西郷札(さいごうさつ)とその覚書が送られてきます。社の誰も西郷札がわからず、百科事典を引いたところ、西郷札は西南戦争の時に西郷軍が戦争中の物品調達のために発行した紙幣で、戦地を点々としながら地域の豪農などに紙幣を押し付けて食糧を確保した、と言うことが判明します。主人公は西郷札と同封されていた覚書に目を通すのですが、その内容に驚愕します。

覚書の作者は樋村雄吾という明治時代を生きた日向佐土原士族で、島津家の支藩の藩士の息子として生まれます。しかし廃藩置県により父が失業したため、一家は農業を生業として生計を建てます。雄吾が11歳の時に生母が亡くなり、15歳の時に父が若い後添えをもらいます。その義母には季乃(すえの)という5歳年下の連れ子がいました。季乃は眉目秀麗な娘で、雄吾は義理の妹ながら心惹かれてしまい、複雑な感情を抱きます。

その後、雄吾は西南戦争に西郷軍の一員として従軍し、勇猛果敢に戦い、藩札(西郷札)の製造にも関わります。しかし右肩を狙撃され、隊を離脱し、地元の素封家、伊東甚平に助けられ、九死に一生を得て生家に戻るのですが、父は既に病気で亡くなり、生家も西南戦争で焼失し、義母や季乃は行方不明になったことが判明します。

雄吾は失意のうちに東京に出て、ふとしたきっかけから人力車の車夫として働きだします。ある時、客として塚村圭太郎という政府の役人を乗せたことで人生が動き出します。何と季乃は塚村の妻となっていたのです。季乃の語るところによれば、西南戦争の折に父が亡くなり、母と共に東京の親戚を頼って上京し、塚村に見初められて嫁いできたとのことでした。季乃は雄吾と兄妹として逢瀬を重ねますが、雄吾は心の奥底に季乃に対する恋愛感情が芽生えてしまい懊悩します。その様子を塚村に見透かされ、塚村は嫉妬の炎に狂い密かに二人の逢瀬を監視します。

そんな折、幡生粂太郎(はたぶ・くめたろう)という人物から塚村を通して西郷札を政府が買い上げてもらうように働きかけを依頼されます。これは、かつて三菱財閥の祖である岩崎弥太郎の藩札買い占めの再現を狙って大儲けを企んだものでした。雄吾は季乃に対する負い目から気乗りはしないものの、結局は塚村に依頼します。塚村は快諾し、雄吾と粂太郎に極秘裏に宮﨑で藩札の買い占めを勧めます。二人は宮崎に移動し、素封家の伊東甚平も巻き込んで買い占めを図るのですが、どこからか情報が漏れたらしく、全財産を投じても思うように西郷札が集まりません。一旦、雄吾が東京に戻ると、政府による西郷札の買い占めは行われず、それどころか雄吾が風説の流布により警察に追われていることが判明します。あまりの事に動揺する雄吾。その後、季乃と合ったことで全てが判明します。塚村は雄吾に強い嫉妬を感じており、偽の買い上げ情報を伝えることで雄吾を犯罪者に仕立て上げたのです。雄吾は逃げるか、裁判に訴えるか、あるいは最後の手段か、という3つの選択肢を考えます。熟考の挙句、やはり最後の手段しかないと結論付けたところで、覚書は終わりを告げます。以降の部分が何者かによって破られていたのです。最後は、主人公が西郷札買い上げのデマに関する明治時代の新聞記事を眺めるところで物語が閉じられます。


私が考える、この作品にみられる後の清張作品の原点としては、まずタクシー好きが挙げられます。タクシーは清張作品の重要なアイテムだと思うのですが、明治時代のタクシーである俥(くるま)、人力車を登場させている点が「らしい」と感じます。運転手と乗客という見知らぬ者同士が、偶然時間を共有する、そういう場面が好きなんですね。

さらに、ミステリーにもかかわらず、敢えて最後のところ(=殺し)を書かない、という点もらしさを感じます。結局、雄吾はその後、塚村を殺して季乃と逃げたのではないかと推量されますが、それは一切が読者の想像に任されます。私の好きな「鉢植えを買う女」という清張作品でも、どう考えても主人公が会社の同僚を殺しているのですが、直接の描写はありません。奥ゆかしいのか、書かないことで、よりリアルさを感じさせているのか、兎に角のちの作品に頻出のパターンだと思います。

あとは、文献を引用する構図を多用する、という点が挙げられるでしょうか。この作品も西郷札に付いていた覚書を主人公が読んで解説する形で物語が展開します。先日勝手に紹介した「装飾評伝」も同じパターンに該当します。

私のような清張好きにはたまらない作品です。

2025年7月24日木曜日

「危険な斜面」(松本清張著、文春文庫)の「投影」に元気をもらう

たまには爽やかな気分になりたいと、短編集「危険な斜面」(松本清張著、文春文庫)に収蔵されている、「投影」を読み返して元気をもらいました。

この作品の主人公は、田村太市という若者で、東京の一流新聞社で記者として働いていたが、上司と喧嘩して社を飛び出してしまいます。そして嫁の頼子と共に瀬戸内のS市に居を移します。二人はしばらくのんびりしていたのですが、やがて頼子はS市のキャバレーで働くようになり、太市も市政を報じる陽道新報社という小さな新聞社に記者として就職します。陽道新報社は社長の畠中嘉吉とその細君、記者の湯浅新六の3人しか在籍しておらず、発行部数も千部程度の弱小新聞社でした。そんな小さな会社ですが、社長は貧乏に甘んじ、しかも病床に臥していながらも正義感が強く、いつも気炎を上げています。一方、記者の湯浅は猫背で周囲には卑屈に振る舞っているが、時折り芯の強さを感じさせる中々の好人物であり、太市は彼らに惹かれていきます。

そんな折、太市は市役所を訪問中に市会議員の石井が土木課長の南を恫喝している所を目撃します。どうやら石井は道路予定地上に自身が所有する廃工場に対して、400万円の立退料を南課長に要求しているが、その要求を拒絶されて脅しにきたらしいのです。しかし、南は気の弱い人物ながら正義感が強く、意地を通して突っぱねます。

そのうちに人事異動があり、南課長の部下だった山下係長が新設された港湾課の課長に昇進します。山下は石井議員の腹心でした。そして山下課長の昇進祝いの夜、南課長が自転車で帰宅途中に海に転落して死亡します。警察は事故死ではないかと推定するのですが、社長は石井らによる他殺であることを見抜きます。太市と湯浅は苦労しながらも手分けをして情報を集め、彼らの殺人トリックと助成金詐欺をあばきます。そしてすべてが解決したのち、太市は再び東京に職を得て、夫婦でS市を離れるのです。

本作品は清張作品によくある官民の癒着が絡んだ殺人事件とその解明がテーマながら、中央の新聞社から追い出された主人公が田舎の小さな新聞社で自己を見つめ直して成長し、再び中央に戻っていく、という成長物語が織り込まれた爽やかな(?)作品です。

最後の主人公夫婦と陽道新報の面々との別れのシーンも感動的で、清張版の青春小説という印象を受けました。

2025年7月22日火曜日

「装飾評伝」(松本清張著)の執拗な嫌がらせに戦慄する

夏なのでゾクゾクしたくて「装飾評伝」(光文社文庫・松本清張短編全集09巻収蔵)を読み返しました。オバケも怖いし私はその手の話はとても苦手ですが、多分人間の方がより怖いだろうと思わせてくれる素敵な作品です。


この物語は、小説家で主人公の「私」が名和薛治という明治から昭和初期まで活躍した画家を題材に小説を書こうとするところから始まります。名和は明治21年に東京で生まれ、日本の画壇で異彩を放つ活躍をみせたのち、渡欧しアントワープに滞在してボッシュやブリューゲルに私淑します。日本に戻って来てからも北欧の写実的なエッセンスを取り入れた独自の境地を切り開きますが、何故か徐々に精彩を失い、私生活も荒んでいき、昭和6年に石川県の能登の海岸で不慮の死を遂げる、という生涯を辿ります。ここで主人公は、名和に関する情報は全て芦名信弘という名和の画家仲間が書いた評伝に依っていることに気づきます。そんな折、芦名が72歳で亡くなると言うニュースを受け、情報のソースを失って愕然とします。

そこで主人公は一念発起し、芦名の遺族である娘の陽子に面会して情報を得ようとしますが、拒絶されてしまいます。さらに、名和のかつての画家仲間で現在は画壇の重鎮になっている葉山光介を訪ねたところ、娘の出自について名和の子ではないかと示唆を得ます。そのことに主人公は衝撃を受け、芦名が評伝に書いた内容の行間に潜む、恐るべき作為に気づきます。どうやら芦名は夫婦で名和と交際しているうちに、名和と奥さんができてしまい、名和の子を身ごもったのです。そのことで芦名は名和には告げずに嫁を追い詰めて離縁し、自殺に追いやり、生まれてきた娘の陽子を引き取ります。そして表面上はこれまでと同様に名和との関係を保ちながら、娘を連れて名和を執拗に訪れることで、精神的に追い詰めていきます。名和は懊悩し、都会を離れて青梅の山奥に引きこもりますが、それでも芦名は追跡の手を休めることはありません。徐々に名和は身を持ち崩し、遂に自暴自棄となり能登の海岸で事故とも自殺ともつかない転落死で亡くなります。芦名はほぼ同年代の名和が持つ光り輝く才能に魅了され、強烈に引き付けられる一方、自身の画才は委縮し、家族も無茶苦茶にされます。その愛憎が深く入り混じるドロドロとした感情の結末として、一人の天才を完膚なきまで叩きのめします。そしてその事を平然と評伝として後世に伝えるのです。


この作品は、わずか40ページ足らずの短編ですが、切れ味が鋭く、読後の胸糞の悪さは何とも言えません。主人公である第三者が既に書かれた出版物の何気ない行間に潜むサスペンスを洗い出す展開は、同じく傑作短編作品である「西郷札」に似ています。こういう日常に潜む人間の恐ろしさを書かせたら天下一品だと思います。

2025年7月21日月曜日

「眼の気流」(松本清張著、新潮文庫)の「影」が心に沁みる

 久しぶりに松本清張の短編集「眼の気流」を読み返しました。この本には、表題作の「眼の気流」の他、「暗線」、「結婚式」、「たづたづし」、「影」の5作品が掲載されています。表題作である「眼の気流」は、清張作品の重要なキーワードであるタクシー運転手が前面に出た作品です。中央自動車道沿線が出てくると安心感すらあります。鉄板ネタです。

この中で私が一番惹かれたのが最後の「影」という作品です。この作品の主人公である宇田道夫は中国地方の鄙びた温泉宿の主人で、そこへ尾羽打ち枯らした様子の笠間久一郎という老人作家が宿に逗留します。その名前を宿帳でみた主人は、そこから二十五、六年前の因縁を思い出します。

当時、宇田青年は文学で身を立てることを志しながらも貧困に喘いでいました。自分の書いた小説は一度だけ名門「R」誌に掲載されたものの、以降は作品が続かない状態でした。そんな状況で、「R」誌の編集者だった江木が下宿を訪れてきます。宇田は作品を掲載してくれるのかと早合点しますが、江木は通俗小説を書いている売れっ子作家の笠間が多忙と体調不良で原稿を落としそうなので、その代筆(ゴーストライター)を頼みたいとのことでした。宇田は、江木から将来「R」誌に作品を掲載することを掛け合う、という曖昧な約束に引きずられて渋々OKします。

宇田は笠間の文体を研究し、さらにストーリーのテコ入れをすることで、笠間の代役を果たします。それどころか、宇田が書いた笠間の原稿は非常な評判を呼びます。笠間と江木は原稿を落とさずに安堵し、宇田は今までにない大金を得ます。味を占めた、笠間、江木、宇田の三人は次々と作品を発表し、通俗作家・笠間の名声は一段と高まります。そして笠間の念願であった全国紙での連続小説を獲得します。笠間の「影」となった宇田は本体以上の能力を発揮するのですが、本体であるはずの笠間は才能が枯渇してしまい、苦悩し酒と女に溺れます。ついに綻びが生じて代作であることが露見し、笠間は追放、小説は打ち切りとなりました。

その後の宇田は自身の創作に打ち込もうとしますが、笠間の「影」が自己と同一化してしまい、自身の作品を書くことができません。江木にも見放され、笠間と同様に切り捨てられてしまいます。宇田は職業を転々としながら温泉宿にたどり着き、現在の女房と所帯をもって宿屋の主人に落ち着きます。

そこから話は冒頭に戻り、宇田が笠間の身の上を案じながら作品が終わります。

この作品は小説のゴーストライターの話ですが、研究の分野でも似たようなものはあると思います。教授が有名人で研究室に沢山のスタッフと学生を抱えている、いわゆるビッグラボになると、中間管理職的なポジションの人が、多忙な教授に代わって色々原稿を書かされたり、研究プロジェクトを指揮したりするのは良くあることです(良いかどうかは別にして)。不思議なもので、そういう若頭的なポジションでは輝いていたのに、念願叶って独立した途端にくすんでしまう人は数多く見るように思います(個人の感想です)。こういう場合は、「影」が本体と同化して、才能が枯渇したのかと思ったりします。かと思うと、出自は曖昧ながら、独立した途端に突然変異的に才能を発揮したりする人もいます。傍らで見ていて、いつも不思議に思う所です。

松本清張自身、非常な苦労をされて年を経てから世に認められた作家ですので、こういう創作活動の奥深さを感じさせるような作品が書けるのかなと思いました。




2025年6月29日日曜日

「なぜ「星図」が開いていたか」(松本清張著、光文社文庫)でトリックに溺れる

推理小説では、犯人が様々なトリックを弄し、読者は読み進めながらそれを看破するのが楽しみ方の一つと思います。しかし、トリックの中には「流石に無理だろう」というが多々あり、それにツッコミを入れるのもまた楽しみの一つです。

松本清張作品の短編の中にもそうしたツッコミ欲を掻き立てられる作品があるように思います。例えば、前の記事の「馬を売る女」に収蔵された「駆ける男」では若い後家さんが旦那さんを殺すのに「ハシリドコロ」という山菜を使います。私としては、何もそれを使わなくてもと思ったりしました。というのも、仕事で動物実験をすると、投与量のちょっとした違いで必ずしも思った効果が得られなかったりします。なので、投与量が安定しない(どのくらい毒が含まれているか定量できない)食べ物を殺人に使うのはリスクが大きい気がしました。量を増やすとバレやすいしね。物語の中では、念願かなって旦那さんは亡くなり、しかも偶然死の間際に以前関係のあった女性と居合わせたので、捜査陣を攪乱することになりました。

「なぜ「星図」が開いていたか」(松本清張短編全集、第7巻収蔵)も30ページくらいの短編ながらツッコミどころが多くて好きな作品です。本作では旦那の同僚と不倫をしている奥さんが、旦那の同僚と結託して、バレないように夫の殺害を企図するのですが、構想が遠大です。夫は心臓が弱いのを利用して心臓麻痺による殺害を狙うのですが、そのために職場で炎天下にハンガーストライキ(ハンスト)を決行し、そこに義侠心の強い夫を参加させます。ストライキを起こすだけでも一苦労です。きっと色々な反対意見があったことでしょう。同僚の方はそれらを巧みに説得したのかと思うと、ご苦労が偲ばれます。そしてハンストで疲弊した状態で帰宅した夫に不倫妻がある方法でびっくりさせて仕留めます。その方法が悪戯レベルなので、流石に無理があるように思いました。作中では念願かなって上手く行くのですが、死亡診断書を書いたお医者さんと刑事さんの手によって犯罪が暴かれて幕を閉じます。警察は優秀ですね。

トリックが前面に出た作品は一種の思考実験として楽しいです。



2025年6月23日月曜日

「馬を売る女」(松本清張著、文春文庫)で清張ワールドを楽しむ

久しぶりに松本清張著、「馬を売る女」を読み返して、清張ワールドを楽しみました。この本は短編集で、表題作の他、「駆ける男」と「山峡の湯村」の2作が収蔵されています。

私としては、「馬を売る女」が好きです。あまり言うとネタバレになってしまいますが、この小説には、以前紹介した「鉢植えを買う女」のように小金を貯めて会社内で個人的な高利貸しをする独身の女性が登場します。「鉢植えを買う女」との違いは、更にもう一つ副業を持っている点で、その副業が競馬の情報屋です。これは社長秘書という立場を利用して、社長の所有する競走馬の状態に関する情報や、社長の馬主仲間からもたらされるディープな情報を極秘裏に会員に伝えて小銭を集めるというものです。結局、それが元で…となります。この辺りがとても清張的です。さらに犯罪が露見するのも、折角迷宮入りとして捜査が打ち切られかけていた矢先に、犯人が自ら不要な申告をして…というお馴染みの展開になります。短編を読みまくった私には安心の展開です。

「駆ける男」は若い後妻さんが旦那さんを…というお決まりの話ですが、その殺害方法が面白いです。何もそんな持って回ったやり方しなくても、と思います。しかし、折角の完璧な計画もコソ泥のような収集マニアのせいで犯罪が露見します。天網恢恢疎にして漏らさず、です。

「山峡の湯村」は田舎のドロドロとした人間関係が良いです。海女さんは独特な言葉を使うんですね。清張作品は、ちょっとした台詞の端に出てくる単語をきっかけに物語を展開していくのが多いですね。有名どころで言うと、長編「砂の器」の冒頭で出てくる重要な台詞に含まれる「カメダ」という単語などは、まさにその典型ですね。



2025年6月8日日曜日

「よくわかる坐禅入門」(藤原東演著、チクマ秀版社)を読み返す

最近、日々の職務が忙しくて落ち着いた生活が出来ておりません。心静かに落ち着いた時間が過ごせればと思い、昔買った「よくわかる坐禅入門」を読み返しております。この本は、今から二十年以上前、京大の学生だった頃に下宿の近くのお寺で買ったものです。そのお寺では毎週土曜日(だったかな?)に私のような素人向けに坐禅の指導をしてくれていました。ほんの数回しか行きませんでしたが、こういう世界もあるのかと見聞が拡がりました。

時々思い出しては、坐禅の初歩である、数息観(すそくかん、自分の息を数えること)を行っています。常時疲れているので大抵眠ってしまいますが、気持ちは落ち着く気がします。




2025年5月18日日曜日

「BOSCH ボス」(新潮美術文庫7)を眺める

最近も山田五郎さんのYoutubeチャンネルである「オトナの教養講座」で美術の勉強をしております。(関連する記事は、こちらこちらです)

その中で、私も以前から好きだった、15世紀のオランダの画家、ヒエロニムス・ボス(1450頃~1516)の作品を紹介している動画が2つありました。一つは、「【ヒエロニムス・ボス】奇妙すぎる絵「快楽の園」には何が描かれている?【オランダの水木しげる】」で、もう一つは「【絵で見る昔のトンデモ医療】恐怖!頭から「石」を取り出す手術とは?【インカ帝国とも関係!?ヒエロニムス・ボス「愚者の石の切除」を山田五郎が解説】」です。どちらも山田五郎さんの博識溢れる解説で非常に面白かったです。快楽の園の解釈などは全く知らなかったので新鮮でした。

下記の書籍は、ヒエロニムス・ボスの生涯と主だった作品を紹介した画集です。動画に出てきた、「快楽の園」(下記の画集だと、地上の愉楽の園)や「愚者の石の切除」(下記の画集だと、阿呆の治療)も図説入りで丁寧に解説されています。ボスは生涯に30点しか作品がなく、署名入りは7点しかないそうです。ボスというと、「オランダの水木しげる」と評されているように、魅力的な怪物(悪魔?)が沢山登場します。魚介類だったり鳥類、獣などが擬人化されたような怪物になり、人を飲み込んだり、手紙を運んだり、楽器を奏でたりと画面の中で大忙しです。どういうインスピレーションでこのような怪物が生み出されていったのかは、諸説あるそうです。それにしても地獄の描写がリアルで夢に出そうです。今の様々な映像に馴れた私でさえそう感じるのですから、当時の人達はビックリしたのではないかと想像したりします。

一方、「愚者の石の切除」のように世相を皮肉った作品もあり、登場人物の表情の豊かさに驚きます。私はそういった作品の中では「手品師」という作品が好きです。これは手品に見とれて財布をすられているのに気づかない女性の表情が秀逸だと思います。

今日は、床屋の待ち時間が長かったので、久しぶりに画集を眺めておりました。



2025年5月11日日曜日

「頭のいいマラソン超入門」(内山雅博著、青春新書)を読み返して

昨今、マラソンに関する書籍は沢山出版されております。私のような活字人間は、それらを色々読んで自分のトレーニングやレースプランの参考にさせていただいております。しかし、割と多くの本がシリアスランナー向けのしんどい内容で、多忙な社会人には過酷なトレーニングメニューが多いです。

そんな中で、この本は私のような中堅の市民ランナーにはとても参考になりました。本書では、一般的な市民ランナーが無理なく達成可能で、かつ充実感を味わえる4時間台で走るためのトレーニング法やレースプランを紹介しております。特にレース中のセルフマネージメントは参考になりました。「一番の敵はオーバーペース」という部分は、自分の経験からしてもとても頷けました。トレーニングメニューについても、「まずは歩きから」ということで無理なくできそうな内容です。

速くはないが、楽しんで続けている市民ランナーには読みやすい内容だと思いました。




2025年5月6日火曜日

「菜の花の沖(一)」(司馬遼太郎著、文春文庫)を読んで

連休中に司馬遼太郎著「菜の花の沖」の第一巻を読みました。この本は、随分前に購入していたのですが、長いこと本棚に入れっぱなしでした。舞台が淡路島と大阪から近く、今が菜の花の季節ということで思い立ち読了しました。

この小説の時代背景は江戸後期で、主人公は高田屋嘉兵衛という商人です。嘉兵衛は、のちに蝦夷・千島の海で活躍する商人で、当時南下政策を進めていたロシアとも単身渡り合ったほどの人物です。

第1巻は、高田屋嘉兵衛が淡路島の都志村の貧しい家に生まれ、悲惨な幼少期を過ごし、やがて兵庫に出て樽廻船の船乗りになるまでが描かれています。本の半分くらいがムラ社会でいじめられる話で正直読んでいてつらかったです。

当時の若者は、各集落に若衆宿(宿)が組織されており、一定年齢の間、共同生活を送っていました。嘉兵衛のいた都志村には新在家と本村の二つの集落があり、互いに数百メートルしか離れていないのですが、別々の宿があり、互いに敵対する関係でした。嘉兵衛は新在家に働きに出ており、新在家の宿に入るべきだったのですが、生家のある本村の宿を選んだために爪弾きにあいます。さらにそこに網元の娘との色恋沙汰も絡み、いじめはどんどんとエスカレートして、ついには殺されそうになります。嘉兵衛は命からがら村を抜けるのですが、ムラ社会の残酷さというか、今につながる同調圧力の恐ろしさが生々しく描かれていて暗い気持ちになりました。

ただ、後半の船乗りの下りは少しずつ明るいトーンになり、幾分ホッとしました。休みは終わってしまいましたが、二巻を買ってきたので少しずつ読み進めようと思います。    



2025年5月4日日曜日

「大槻ケンヂが語る江戸川乱歩 私のこだわり人物伝」&「悪魔の紋章」

お休みなので気楽なものを読もうと思い、「大槻ケンヂが語る江戸川乱歩」と「悪魔の紋章」を読み返しました。江戸川乱歩は昔から好きな作家で、立教大学が管理している、池袋の住居跡まで訪れるほどです(その模様はこちらをご覧ください)。

好きな乱歩の作品のパターンは2つあって、作家のむき出しの感性・欲情が出たような「猟奇的であぶない」短編~中編と、パターン化されている「笑って楽しめる」長編です。そんな楽しみ方を明快に教えてくれたのが「大槻ケンヂが語る江戸川乱歩」(江戸川乱歩、大槻ケンヂ著、角川文庫)です。大槻ケンヂさんは言わずと知れたロックミュージシャンですが、乱歩作品に造詣が深く、文中にも乱歩愛があふれています。その中で、乱歩作品の荒唐無稽さをもっとツッコミを入れて楽しんでよいと指摘しています。これを読んで、今までモヤモヤしていたものがスッキリしました。

同じような指摘は「悪魔の紋章」(江戸川乱歩著、創元推理文庫)のあとがきで廣澤吉泰さんも指摘されていました。「悪魔の紋章」もこれまでの長編に見られる展開がふんだんに盛り込まれていて、ある種、安心して読める作品です。復讐のために仇敵の前で先祖の悪行を演劇で見せるシーンがあるなど、ツッコミどころ満載です。個人的には「魔術師」の毒味を薄くしたような作品だと思いました。


2025年4月19日土曜日

松本清張著、「腹中の敵」に隔世の感を覚える

同じ作品でも時代を経ると受け手の印象は変わるものだと思いますが、松本清張の短編小説「腹中の敵」を最近読み返して、改めて昭和と今では感覚がまるで違うと思いました。

この小説の主人公は、織田信長の家臣だった丹羽長秀です。丹羽家は旧くは斯波氏に遣えた名門の出で、織田家臣団の中でも家格が高く、長秀も実力・地位で柴田勝家と双璧をなします。一方、木下藤吉郎(豊臣秀吉)は織田家臣団の最下層から身を起こし、次々と手柄を立てることで物凄い勢いで出世の階段を駆け上がります。そんな藤吉郎を柴田勝家や滝川一益といった他の家臣団のメンバーは良く思わないのですが、長秀だけは寛容な気持ちで受容し、藤吉郎も長秀に敬意を払います。やがて織田軍団の勢力は全国統一に向けて戦線を拡大していきます。そんな最中に信長が本能寺で明智光秀に突然討たれます。藤吉郎は中国地方に遠征していましたが、有名な中国大返しで近畿に戻り光秀を討ちますが、長秀も藤吉郎の軍勢に加わり戦を助けます。その後の信長の後継者を決める清州評定でも長秀は藤吉郎を支持し、実質後継者になることを了承します。こうして常に長秀は藤吉郎をサポートしますが、内心は自分の方が名門の出で先輩であるという自尊心と、後輩の期待に応えたいという見栄の間で葛藤します。最後は積聚(しゃくじゅ)という不治の病で命が長くないことを悟り、自ら腹を割くのですが、腹の中から血まみれの異形な尖り曲がった一物(寄生虫?がん?)が出てきます。長秀はそれを秀吉に見立てて思う存分切り裂いて命が果てて物語が終了します。

小説のメッセージは要するに、勢いのある後輩に追い抜かれてその部下になるのが嫌だった、ということだと感じたのですが、そこにとても昭和を感じてしまいました。昨今のご時世では、この小説が前提としている終身雇用・年功序列という夢のようなシステムは完全に崩壊し、頼りになるはずの大組織も簡単に崩壊する世の中になっております。そのような状況では、小説で描かれている長秀の「伸びそうな後輩に早くから目をかけておいて、後々そいつの引きで安泰に暮らす」というスタイルは大成功と言える気がします。

私から見ると、一世代上の人達が持ち家・自家用車・4人家族を当たり前のように手にしながら、人生の不満を言っているシーンを目の当たりにするような羨望と嫌悪を感じてしまいました。



2025年4月5日土曜日

松本清張著、「空白の意匠」が心に沁みます

ここしばらくは、某テレビ局のCM差し止めが続いていますが、それに関わる営業の方々はきっとご苦労されていると推測しております。その心情の一端でも感じることができる短編小説が松本清張の「空白の意匠」です。

この小説は、地方で発行部数十万部に満たない小新聞を発行しているQ新聞社、広告代理店である弘進社、広告主である和同製薬の三社を舞台にした社会派小説です。主人公はQ新聞社の広告部長である植木欣作です。Q新聞は収入の大半を弘進社が回してくれる広告収入に依存しており、中でも和同製薬は大広告主です。ある日、Q新聞は和同製薬の主力商品であるランキロンという強壮剤がもとで中毒死が生じたという記事を商品名を明記して報じてしまいます。しかもランキロンの広告の上に二段で記事を配置するという間の悪さです。これに弘進社も和同製薬も激怒し、植木は肝を潰します。慌てて弘進社にとりなすも、郷土新聞課長の名倉には会ってもらえず、若い副課長の中田には散々嫌味や罵倒を浴びせられます。植木はなんとか事態を好転させようとQ新聞の編集部や専務に掛け合ったり、東京の弘進社に出向いたり、和同製薬へお詫びに伺ったりしますが、一向に状況は改善しません。さらに中毒死自体がランキロンが原因ではないことがわかり、全面的な訂正を求められます。植木は屈辱に耐えながらも唯々諾々と彼らの意向に従いますが、最終的な着地点が少しも見えてこず不安な日々を過ごします。

そんな折、事態収束の鍵を握る、弘進社の郷土新聞課長の名倉がQ新聞社を訪れます。植木は専務らと共に社を挙げて名倉を接待し、名倉も終始上機嫌で応じます。そのまま接待は終わり、列車で帰路につく名倉をQ新聞社一同が安堵しながら送り出そうとした刹那、名倉は専務を呼び、それまでの上機嫌とは一変させてこう言います。

「あたしもね、せっかく、ここに来たんですから、今度の厄介な問題については、和同製薬さんに何かオミヤゲを持って帰らねばなりませんでな。これはわかっていただけるでしょうね。」

専務はその意味を了承し、植木はその日のうちに辞表を書かされて物語が終わります。


何度読み返しても最後の1ページは心が震えます。松本清張のラストシーンの切れ味の良さは絶品です。途中、植木が忍従を強いられる場面なども社会人経験が長くなるにつれて、心に沁みます。きっと某局界隈でも、この小説の植木のように立ち回りに苦労されている方が沢山おられるのだろうと想像が膨らんでしまいます。仕事って大変ですね。

2025年2月20日木曜日

「新装版 王城の護衛者」(司馬遼太郎著、講談社文庫)を読み返して

出張で新大阪と博多駅を往復する機会があったので、新幹線の車内で司馬遼太郎著、講談社文庫「新装版 王城の護衛者」を改めて読み返しました。行きと返りでちょうど読み終えることができて、良いリフレッシュになりました。

この本は、司馬遼太郎氏の短編集で、表題作である「王城の護衛者」の他、「加茂の水」、「鬼謀の人」、「英雄児」、「人斬り以蔵」、の5つの短編作品が収蔵されています。これらの短編は、いずれも幕末の一場面で歴史の表舞台を彩った人物に焦点を当てています。

「王城の護衛者」の主人公は、会津藩主の松平容保公です。会津藩の藩祖・保科正之は、二代将軍・徳川秀忠が側室に産ませた庶子でありながら、初代会津藩主として陰ながら徳川宗家を良く補弼し、宗家を守る使命を家訓として会津藩に代々受け継がせます。容保公は実直な性格で、その家訓を守ることを天命としますが、幕末という時代の激流に翻弄され、京都守護職に抜擢されてからも、時節の流れに懊悩します。その中で孝明天皇に心酔し、容保公の中に王を守ることが新たな使命として芽生えます。帝も容保公に心を開き、二人の絆は深いものに思われました。しかし、孝明天皇は崩御し、容保自身も長州や薩摩の巧みな政略によって賊軍の汚名を着せられ、失意のうちに表舞台から姿を消すことになってしまいます。表舞台から退場させられた後の容保公は、孝明天皇からいただいた直筆の勅諚を死ぬまで肌身離さず持ち歩いたそうです。そして怨念の籠る遺品は現在も銀行の貸金庫に眠っていると締めくくられて物語が閉じられます。容保公は、一切の政略を用いず「策ではなく至誠こそが最後に勝つ」という信念で、変化に抗いました。しかしその翻弄され、苦悩する姿は、令和の恐ろしい世の中を生きている身にも迫るものがありました。

「加茂の水」は、玉松操(たままつ・みさお)という下級公卿の老人が主人公です。玉松は博覧強記で筆も立つのですが、変わり者として知られ、琵琶湖のほとりで隠遁生活を送っていました。それが蟄居していたときの岩倉具視に見いだされ、以後岩倉のブレーンとして権謀術数の限りをつくし、彼を支え時代を動かします。特に、幕末の鳥羽伏見の戦いで戦況を一変させた秘密兵器、「錦の御旗」は彼のアイディアとのことです。維新後は官に取り立てられるも欧化主義に憤慨し、官位をなげうち、市井に没します。優れた能力がありながら不遇の時を過ごすも、一瞬の強烈な光を放つさまは、この短編集の主人公に相応しい人物と思います。

「鬼謀の人」は、村田蔵六、のちの大村益次郎が主人公です。司馬遼太郎氏の長編作品に「花神」という作品があるのですが、それをダイジェストにしたような作品です。長州藩の村医の子であった村田蔵六は、学問で身を立て、大坂の適塾で頭角を現し、幕府や伊予国宇和島藩をはじめ、様々な藩から高く評価されるものの、自身の藩である長州藩からは足軽という身分のせいで評価されませんでした。それが桂小五郎の推挙などもあり長州藩の軍師となるや、第二次長州征伐や戊辰戦争などで八面六臂の活躍をします。ところが難しい性格から周囲と衝突を起こし、ついには明治二年に凶刃に倒れます。歴史が彼を必要とした瞬間に表舞台に立ち、自らの役目を終えると速やかに退場するさまがこの作品にも見事に描かれています。余談ですが、戊辰戦争の際に上野で彰義隊と戦ったときに佐賀藩のアームストロング砲が戦闘に使用され大活躍するのですが、この部分は「アームストロング砲」という短編が出ています。

「英雄児」は、長岡藩の河井継之助が主人公です。風変わりな人物で、何を考えているのか周囲にも理解されませんが、物事の先を読む傑出した才能を持ち、小藩である長岡藩の重臣に抜擢されるや藩の財政を見事に立て直し、藩の軍備強化に心血を注ぎます。そして戊辰戦争の中、真向を切って官軍と戦います。一時は官軍を追い詰めますが、結局は戦争は敗北に終わり、継之助自身も戦いで受けた傷がもとで亡くなります。この戦いで長岡藩が負ったダメージは大きく、その恨みは亡くなった継之助に向けられ、幾度となく墓が壊されるという描写に心が痛みました。どんな英雄傑物も置き場所を間違えると大変なことになる、との締めくくりが心に沁みました。たしか、継之助の生涯については長編小説「峠」で描かれていたと思うのですが、この長編は未だ読んでいません。

最後の「人斬り以蔵」は、土佐藩士、岡田以蔵とその師である武市半平太が主人公です。以蔵は剣で身を立てることを夢見て、縁戚である武市を師と仰ぎます。武市は郷士の身分ながら人望が厚く、剣の腕が立ち、土佐勤王党を組織し、当時の藩の実権を握っていた吉田東洋を暗殺し、藩での発言権を増していきます。一方の以蔵は、「人斬り以蔵」の異名をもち、剣こそが自己表現と捉え、土佐藩のみならず諸藩の汚れ仕事(暗殺)に奔走します。以蔵は武市に心酔しますが、武市は以蔵を恐れつつも苛烈にあたります。徐々に二人の亀裂が深まり、ついに以蔵は武市から放擲され、失意のうちに京都に逃れます。そんな中、土佐藩は山内容堂が藩の実権を握り、佐幕派の揺り戻しが始まります。武市ら勤王党は捕縛され、拷問により過去の暗殺事件などを詰問されますが、皆命を賭して自白しません。一方の以蔵は些細な事から京都で刃傷沙汰を起こし、捕縛されたのち土佐に連れ戻されます。最後は以蔵が武市への復讐心から自らの罪を自白し、その科により武市は切腹、以蔵は梟首のうえ首を晒されることになります。鬱屈した愛情が憎しみに代わっていくさまが生々しいです。



2025年2月13日木曜日

「支払い過ぎた縁談」(松本清張著、光文社文庫)が心に沁みる

疲れた時は松本清張の短編ということで、「支払い過ぎた縁談」を読み返しました。この作品は、松本清張短編全集の10巻(光文社文庫)に収納されている作品で、昭和32年(1957年)の間に書かれた短編です。この作品は一切の無駄のない、詐欺事件の要約文のような短編です。

巻末の作者自身の作品評によると、軽い短編として週刊誌に載せたもので、Oヘンリーのような短編の味を狙ったもの、だそうです。Oヘンリーというと英語の授業で習った、「最後の一葉」くらいしか知らないのですが、どちらかと言えば心温まる作品を書いていると思います。この作品は、それよりも松本清張の色が出ていて、無慈悲で現実的な雰囲気が良いです。大人になると変な慰めよりも、こちらの方が心に沁みます。

作品では、資産家親子がプライドの高さに付け込まれてしまい結婚詐欺に遭います。こういう無駄なプライドが色々な隙を生みだす元なのですが、小市民の私にはそういう隙が生じてしまう心の弱さも良くわかります。とても身につまされる作品です。


あらすじ(昭和32年の社会通念と貨幣価値です。目くじら立てないようにお願いします)

 萱野家は、とある田舎の地主であり、徳右衛門(とくえもん)はその当主である。徳右衛門には三人の子供がおり、下二人の男児はまだ学校に通っているが、一番上の幸子は26才の独身で家に居る。徳右衛門と幸子の所には、これまで沢山の縁談が持ち込まれたが、親子共にプライドが高く、自分たちのような名家には不釣り合いとの理由で断り続けた。その結果、幸子は婚期を逃してしまい、親子は内心焦っていた。

 萱野家には家に代々伝わる貴重な古文書があり、しばしば研究者の訪問を受けることがあった。そんな折、東京のXX大学文学部講師の高森正治と名乗る人物が徳右衛門のもとを訪れる。彼は徳右衛門に古文書を見せてほしいと言い、古文書を撮影したあと、御礼の品として自分が発掘した石器時代の石包丁を徳右衛門に渡す。そして去り際に幸子に婚約があるかを確かめて萱野家を去った。

 それからしばらくして、高森の叔父で弁護士の高森剛隆(たかもり・ごうりゅう)という人物が萱野家を訪れる。曰く、甥が先日こちらを訪れた際に、幸子に一目惚れし、是非甥と婚約してほしいと切り出す。徳右衛門、幸子の親子は、将来は大学教授という高森正治の洋々とした前途を思い、この縁談に至極満足する。そののち、幸子と正治の間で心のこもった文通が始まり、正治から金の指輪や小さな金側時計が送られる。

 そんな折、萱野家の前に見たことも無いような高級車が故障して止まり、中から細見で長身な桃川恒夫という男が下りてくる。桃川は車を修理して手が汚れたため、手を洗わせてほしいと幸子に願いでる。幸子と徳右衛門は恒夫の美貌と富裕の匂いに動揺し、正治との縁談に迷いが生じる。それから間髪入れずに恒夫の母と名乗る人物が萱野家を訪れ、幸子と恒夫との縁談を切り出す。曰く、桃川家には4,5千万円の財産があり、それらは全て一人息子の恒夫が相続すること、結納金は300万円ほど用意することを告げられる。さらに徳右衛門親子は、恒夫の東京のアパートに招待され、その外国映画のような豪華な暮らしに圧倒される。彼らは正治との縁談を破談にすることを決め、指輪や時計を正治に返却する。

 破談を聞きつけた高森剛隆は怒り狂い、萱野家を訪れ、慰謝料80万円を要求する。徳右衛門は、はじめは要求を突っぱねるが、幸子から正治に当てた手紙の数々が桃川家に渡ることを恐れて思案する。彼は、頭の中で桃川家からの結納金300万円があれば80万円差し引いても220万円残ると計算し、所有する山林を売り払って高森の叔父に80万円支払う。

 これで障害はなくなったと安堵する萱野親子であったが、不思議なことに桃川家との連絡が途絶えてしまう。不安になった萱野親子は東京の恒夫のアパートを訪れると、既にもぬけの殻で、それは高森正治のアパートも同様であり、自分たちが詐欺にあったと知る。心に沁みる原作の最後の一文がこちら、「石器時代の石包丁は粉々に割られて庭のどこかに捨ててある。しかし、これは4人の詐取者が置いていった唯一の高価な置き物であった。」



2025年1月27日月曜日

「侍はこわい」(司馬遼太郎著、光文社文庫)を読んで

この本は、年末年始のお休みの間に読もうと思って買っていた本の一つでした。しかし休みの間は読むことができず、今週末にやっと時間と精神的な余裕ができたので読了しました。

私は小さい頃から司馬遼太郎さんの作品が好きで、主だった長編小説や「この国のかたち」などのエッセイは大体読んできました。従って私の日本史の知識は、ほとんど司馬遼太郎さん(と吉川英治さん)の小説から得たもので、いわゆる司馬史観にどっぷりと浸かって育ってきました。そんな中、本屋さんでこの本をパラパラと見たときに、今まで見たことの無い短編が収められていたので興味を惹かれて購入しました。

この本には、権平五千石、豪傑と小壺、狐斬り、忍者四貫目の死、みょうが斎の武術、庄兵衛稲荷、侍はこわい、ただいま十六歳、の合計8編の短編小説が収録されています。初出を見ると、いずれも昭和30年代から40年頃にかけて書かれたようなので、作者が30~40代の作品のようです。そのせいか、文章がとても若々しいように感じました。どの作品も面白かったのですが、私が最も印象に残ったのが「権平五千石」でした。

この作品の時代背景は織豊時代から江戸時代にかけてで、主人公は平野権平という人物です。平野権平は、豊臣秀吉の家臣で武勇に優れ、柴田勝家との賤ケ岳の戦いで名を挙げた、世に言う賤ケ岳七本槍の一人です。しかし地味で目立たず、不器用な性格で、秀吉から愛されず、福島正則や加藤清正といった他の七本槍たちが皆大名に取り立てられたのに対して、わずか五千石の旗本止まりでした。その後、関ヶ原の戦いで会津遠征に東軍として参加したため、江戸時代に入ると徳川家康から取り立てられるも、やはり大名としてではなく旗本寄合席としての身分で、石高も五千石で据え置きでした。しかし福島正則や加藤清正らがお家断絶の憂き目にあう中、平野家は代々無事に家督を相続し、江戸時代の末期には小禄ながらも大名に取り立てられ明治まで続きました。人間万事塞翁が馬、と言う感じで何が幸いするかわかりません。社会人経験が長くなると、こういうほっこりとした作品が心に沁みます。人生色々あるけれども、めげずに頑張ろうと思います。

2025年1月13日月曜日

「同志少女よ、敵を撃て」(逢坂冬馬著、ハヤカワ文庫)を読んで

この本は冬休みに読もうと思っていたのですが、休みの間には読み切れず、この連休で読み終えました。いや~、面白かったです。

この小説は、第二次世界大戦下の独ソ戦の真っ最中におけるモスクワ近郊の農村から始まります。そこで猟師の母と、村の皆と素朴で暖かい生活を送っていた、主人公のセラフィマが、侵攻してきたナチスドイツ軍に村を蹂躙され、母も殺される、という刺激的な場面から物語が始まります。その後、セラフィマは復讐を胸に狙撃兵としての教育を受け、女性だけの狙撃部隊に組み込まれて、戦地に送られます。一番の見どころは、独ソ戦のクライマックスといえるスターリングラード包囲戦でしょうか。そこでの戦友との出会いと別れ、仇敵との再会、周辺住民との複雑な人間関係など濃密なドラマが展開され、完全に引き込まれました。その後は中々最後の展開が読めずハラハラしましたが、あの終わり方で良かったです。(もっと悲惨なものを想像してしまいました。)

時節柄、作者の方は現在の社会情勢に複雑な思いをされているとありましたが、戦争のリアルが伝わってきて胸を打つものがありました。世界史に疎かったので、当時の独ソ戦をネット検索してみましたが、あまりの悲惨さに愕然とする思いでした。平和のありがたみが身に染みます。