私が現在住んでいる東京都板橋区成増は、昔は石成村と呼ばれていたそうです。石成の名前の由来には古い言い伝えがあるとのことでしたので、図書館で少し調べてきました。その結果二つの文献が見つかったので以下に該当部分を適当に抜粋しました。
いたばしの昔ばなし(板橋区教育委員会編)より
石成村の名の起こり
『むかし、上赤塚村の「塚越」というところに、荒れ果てた小さなお堂がありました。屋根のあちこちはいたみ壁土ははげ落ちて、見るからの荒れ寺でした。
いつの頃からか、この荒れ寺にどこから来たのでしょうか、名も知れない一人の年老いた坊さんが住み着いてました。坊さんは朝夕にお経をあげ、村の人たちに暇を見つけては、有り難い仏様の教えを説いていました。村人も仏様の教えを守り、平和な毎日を送っていました。
この平和な村に大変なことが起こりました。それは、突然数人の盗人が押し寄せてきたからです。村人を傷つけたり、大切な物を壊したり、奪ったりして乱暴の限りを尽くしました。盗人たちはお堂にまでやって来ました。
それまで目を瞑り静かにお経を上げていたお坊さんは、カッと大きく目を開いて言いました。
「お前たちの行いは、人の皮をかぶっている鬼畜生にも劣る仕業である。すぐ、仏様にお詫びして立ち去れ。」
けれども、盗人たちは「坊主のたわごと、聞く耳持たぬ」と、坊さんに乱暴しようとしました。坊さんは、この有様をご覧になって、「不動の金縛りの呪文」を唱えて、盗人たちを取り押さえることにしました。呪文をかけられた盗人たちは皆動けなく立ちすくんでしまいました。中でも主だった者たちは、みんな石に変えられてしまいました。
これから後、村は再び平和を取り戻し、人々は幸せに暮らすことができました。誰いうことなく、このことがあってからこの村を石成村と呼ぶようになりました。
今も、石成山清凉寺というお寺があります。』
いたばし郷土史事典(板橋史談会編)より
石成
『「成増村は元赤塚村の内なり後分村して石成村といへり」と「新編武蔵」に記され、石成が今の成増であったことがわかる。応安五年(1372)の町田要吉氏所蔵文書、康暦元年(1379)の鹿王院文書に石成の名がみえ、高麗氏や足利氏の所領であったことがわかる。さらに応永二七年(1420)の石成村観音堂の鰐口にも石成村と明記されており、その間の五二年間は石成村と呼ばれていたわけである。その後また赤塚に合併し、明暦三年(1657)に分村して成増村になった。
地名の由来は定かではないが、上赤塚村の荒れ寺に盗賊が押し寄せたのを年老いた住職が「不動の金縛り」の呪文を唱えて盗賊を石にしてしまったことから石成と呼んだと伝える「昔ばなし」。また赤塚の清凉寺は石成山と号する』
二つの文献とも清凉寺というお寺が出てきます。このお寺は現在もあるようなので、酷暑の中現地を見に行ってきました。大きなお寺なのですぐに見つかったのですが、塀も建物も新しく綺麗で昔ばなしの荒れ寺とはずいぶんかけ離れた印象です。入り口には板橋区教育委員会の真新しい立て札が掲げられており、その説明によると九百年前のお坊さんのお墓が現存するそうです。また明治時代にはこの場所に小学校が置かれていたとのことです。自分が住んでいる家の身近なところにも歴史の流れを感じられてうれしいです。