双葉文庫 松本清張初文庫化作品集2巻、「断崖」を久しぶりに読み返してみました。この本には、表題作の他に、濁った陽、よごれた虹、粗い網版、骨折の4編が収められています。2ページで終わる骨折は別にして、濁った陽、よごれた虹、粗い網版は、社会派推理作家の肩書にふさわしい組織に潜む悪や闇を扱っております。
これに対して表題の「断崖」は異色な短編です。この作品は、誠実で知られていた老人が、若くて美しい娘さんの乱れた姿についムラムラしてしまい、娘さんが熟睡している間にコッソリいけないことをしてしまった話です。その後、自責の念と周囲の好奇の目に耐えられなくなり、ついに老人は自死してしまいます。自殺の名所で自殺者を食い止めるための仕事をしているのに、最後は自分が海の藻屑と消えるという何とも切ない話です
昨今では、警察の御厄介になったり、周囲に酷いことをしたような人たちでも「鋼のメンタル」とやらで何事もなかったようにするのが横行している中で読むと、悪いことは悪いのですが、こうした小市民的な振る舞いが心にしみます。松本清張のこういう短編もすごく好きです。
《あらすじ、ネタバレ注意》
北海道のR町にあるエシキ岬は国定公園の一角にあり、海食崖と岩礁の発達が著しく、80メートルの断崖が続いている。その岬の根元の入江には町営の宿泊センターがあり、そこには二人の管理人、62歳の谷口彦太郎と60歳の向井万吉がいた。二人は共に町役場の元職員で、現在は町の嘱託である。温厚な谷口に対して向井は陰気な性格で、お互い険悪な関係だった。二人の任務は宿泊客の応対と共に、岬に自死をするためにやってきた自殺志願者の監視であった。昼間は二人一緒に勤務し、夜は交代で一人残り、時折訪れる客の応対をした。
ある晩秋の夜、谷口が当直の時に、歳の頃22、3歳の美女がずぶ濡れで訪れる。彼女は自殺しようとして死にきれず、宿泊センターに助けを求めてやってきたのだ。谷口は疲労困憊する女を介抱し、食事を与えて床に就かせる。しかしその最中も女性の艶やかな姿態が目に付いて落ち着かない。女性を部屋に寝かしつけて、自分は別室で休もうとするのだが気持ちが昂ってしまいどうしても眠ることができない。ついに夜半過ぎに女性の部屋に忍び込み、昏倒するように眠る女性を相手に思いを遂げる。女性は何をされたのか気づかないまま、次の日体調を回復して帰って行った。その後、一週間して女性から礼状が届いた。
しばらくして谷口が女性と関係を持ったのではないかという噂が立った。向井が吹聴したのだ。その噂が広まるにつれて周囲の人たちの谷口を見る目が変わってきた。これまで柔和で親しみやすいと思われてきただけに、人々は落胆し谷口を気味悪がった。噂は町役場にも届いたが、証拠がある訳では無いので周囲はそれ以上は踏み込んでこなかった。その遠巻きに見られている感じが逆に谷口を苦しめた。
冬の間にセンターは閉鎖されているが、その間も周囲の人達の視線は変わらなかった。谷口はみるみる憔悴して痩せていった。
やがて春が近づき、再び女性から手紙が届く。そこには良縁に恵まれて結婚すること、自分が立ち直る契機になったエシキ岬を今度は夫婦で訪れたいと書かれていた。夫婦が訪れると予告した三日前、谷口はバスの乗客が一人帰りが遅いので探してくると言って、センターを出たまま戻らなかった。次の日、海中を覗くグラスボートの客が藻のそよぐ草原を漂う谷口を発見した。