阪大吹田キャンパスから国道171号線(通称:イナイチ)に出て、道路の南側を茨木市の方向に歩いていると、不二家と交番を越えた辺りに「ぼろ塚」なる塚に遭遇します。
国道には下の写真のような小さな案内板が出ています。この案内板に従って、川沿いの板金工場の側道を70メートルくらい行くと二枚目の写真のような小さな石の塚と茨木市が出した解説板?が見えてきます。何とこの塚、吉田兼好の徒然草・第百十五段に出てくる、2人のぼろ(虚無僧のこと?)が果し合いをした跡に建てられたのだそうです。第百十五段の内容は、次の通りです。(原文は下にあります)
『いろをし、という名前の虚無僧が、その昔に、しら梵字(しらぼじ)という名の虚無僧の御師匠を東国で殺したので、しら梵字が師匠の仇を打つために宿河原でいろをしを探し当てる。いろをしはその仇討ちに応じて河原にて二人で戦い、共倒れに終わる。その話を兼好が聞きつけて、二人ともに命を投げ出すさまが潔いと聞いたままに書き留めた。』
教科書にも載るような歴史的作品の舞台がここなのかと感心していると、解説板の最後には「宿河原の場所は神奈川県川崎市との説もあります」という文字が。家に帰り、早速手持ちの岩波文庫、新訂徒然草(吉田兼好著、西尾実・安良岡康作校注)をみると、確かに宿河原の注釈に現在の神奈川県川崎市と書かれていました。だとすると、この塚は一体何なのでしょうか?後世、このようなことで困らぬように、吉田兼好には「武蔵の国の宿河原」とか「摂津の国の宿河原」のように、もう少し詳しく書いておいて欲しかったです。
第百十五段
宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨さまたげに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出いであひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。
ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我が執深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍るなり。